洞穴の入り口で外の様子を伺っていたアミュタは体をぴくりと震わせた。恐怖からだけではない。周りの全てから狙われる感覚。
かつて同じように追い詰められた記憶。
奥底に深く深く刻まれた想い。
ハルパが暗闇に慣れた目で入り口を振り返る。
わずかに見える、こちらに横顔を向けたままのアミュタ……。
少女は目をこすった。アミュタ?あれは、アミュタ?
だが、近づこうとする前に苦しむンナンに腕を掴まれてしまう。
奥に背を向けたアミュタの鼻と口が段々前へせり出していく。
それにつれ、口の端が裂けていく。白い息を吐き出す度に鋭い牙が覗く。顎全体も長く、大きくなっていく。いつの間にか眼も大きくなり、中の黒目が縦に細く光っていく。
額がぐぐっと後退し頭が平らになる。日に焼けた肌に刻まれていた模様が顔や手足にまで広がって浮き上がり、まるで本物の硬い鱗だ。爪までも硬く鋭く伸び、蠢いている。
体は毛皮を着たままだが、一まわり大きくなったようだ。
『……暗い。何もかもがぼやけて、はっきり見えない。だけど分かる。ぎらぎらした敵意。あいつらは群れで襲いかかって来た。群れのこどもたちはうばわれて。
……うばわれて、ひきさかれて、たべられて……。
……あのこは……ワタサナイ。ワタシノコ、ゼッタイヤラナイ!コロス!ヤツラコロス!』
「はぁはぁはぁ……。ん、う、あぁぁっぁぁっぁぁぁぁ!」
ンナンの、新たな命を呼ぶ声が森の空気を、凍りついた緊張を引き裂いた。
獣達が咆哮と供に茂みを乗り越えた。
アミュタだったものも同時に洞穴を飛び出す。
その手の鉤爪と半月形の牙がぶつかり合う。脇をすり抜けようとした別の一頭に、右手をすばやく振り回す。湾曲した爪に腹を引き裂かれた獣が、絶叫を上げ飛びのく。血しぶきが雨のように撒き散らされた。
更に足に咬みつこうとしたものの首を両手で掴むと、そのまま締め上げる。しなやかだった腕の筋肉が隆々と盛り上がり更に堅くなった。
骨を砕く音がすると、その四肢からがくりと力が抜ける。
アミュタは自分よりも大きな肉食獣の体を勢いつけて持ち上げると、更に向かってきた一頭に投げつけた。ズシンという震動が悲鳴をかき消して土埃を立てた。
異様な姿、かぎなれない臭い、それをしのぐ圧倒的な力。
獣達は怖気づきじりじりと後退した。アミュタが大きく口を開け威嚇すると、それを合図にぱっと身を翻した。
すぐそこまで獣達を追ってきていた二本足達は度肝を抜かれた。
獰猛な獣達が慌てふためいて逃げてきたのだ。
自分たちのことなど眼もくれず、あっという間に闇の中に消えてしまう。
獣と自分達の狩りの興奮で渦巻いていた熱狂が潮のように引いていく。彼らが獣の本能だけを持っていれば、もっと早く引き返していただろう。
静まり返った森の中で血まみれのもの達は息を呑んだ。
この先に、この先に何かがある。武器を持ち直すと、身を低くして前へ進む。
そして、茂みの向こうの洞穴の前に。
闇の中に二つ輝く、瞬き一つしない金色の瞳を見た。
「うぅぅ……、はぁはぁ、んんぐぐぐうううぅぅうう!」
ンナンにまた、もう何度目になるか分からない痛みの波が来た。
ハルパの小さな手を握り、思いっきり歯を食いしばる。
もう自分が眼を開けているのか、閉じているのか、まだ夜なのか、もう朝なのかも分からない。体の奥まで突き刺されるような痛みで意識が朦朧としていた。
突然、ンナンの叫びに他の何者かの叫びが重なった。
中からも外からも押し寄せる叫び声にハルパは身をすくませる。
ンナンの足の間の地面は流れ続けた何かでぐっしょりと濡れている。洞穴の外からはつんざく絶叫が届き、少女を震えさせた。
助けを求める声にならない声も。
ハルパは喘いだ。空いているほうの小さい手で口を押さえ、必死にンナンの方だけ見ている振りをする。ンナンはそれどころではないし、自分が邪魔で入り口のほうは見えないはず。
入り口の外ではアミュタであったものが、今はもうどんな姿をしているかわからない。
ハルパは必死に心を落ち着けようとした。
こんなこと、おどろくようなことじゃない。
怖がるようなことじゃない。だって今までにだって、たくさんあったことなんだから。
ハルパの黒く塗りつぶされた視界に様々な情景が思い出される。
この地に来た時、一番最初に出会ったのは川辺に流れ着いていた娘だった。傷だらけで、子供の自分には大したことはしてあげられなかった。
そして命の残り火が消えていくような彼女の傍らで知ったのだ。
彼女が一番好きだったらしい誰かのことを。
彼女を想っている何人もの仲間がいることを。
その時も、そして冷たくなった彼女を小さな手で埋めたときも、一人じゃなかった。側にいてくれたものが、このとき初めて言葉を操るものの姿になってくれた。そして今までずっと「アミュタ」でいてくれた。
自分が今まで死ななかったのは、守られてきたからだ。
あのものは今までにも色々な獣に姿を変えて、自分を守ってきてくれた。牙を持つもの、身が軽いもの、背が高いもの、そして空を飛ぶものにも。
でもどんな姿になっても、自分を傷つけたことは一度もなかった。小さい子供を傷つけたこともなかった。
だから、だからきっと。
そう思わなければ逃げ場のないこの洞穴の中でどうにかなってしまいそうだった。止まらない震えを鎮めようとンナンの手を負けないくらい強く握り締める。