<< SKIP   < PRE  □ CHARACTERS     NEXT >    SKIP >>
「人

 生まれいずる

               星」

 −第1章−

 <第1話>

































































 
 昨日通った道を戻ってがけに着いたころには日が沈み始めていた。
がけの底はすでに薄暗くなり、どれだけ高いかはよく分からない。
男はがけを伝うように生えているつるにつかまると迷わず降り始めた。
ヒョウが落ちつかない様子ですぐ後についていく。
つるに爪を立てて降りていくが、つるが細くなるとそこから動けなくなってしまった。

 男は更に下へ下へと降りていく。探していた草が見えた。
がけにへばりつくようにして生えている。
それをいくつか採ると今度はつるをよじ登っていく。
がけの凹凸の影は更に濃く、深くなる。
つかむ手に力をこめるとつるは一瞬ぴんと張り詰め、次の瞬間、突然へばりついていた土や石と一緒に男に向かって落ちてきた。
支えとバランスを失い、声を上げる間もなく男は暗闇の底へ落下する。
ヒョウはためらいもなく、がけを落ちるように駆け下りていった。

 がけの下にもわずかに土や草があったが、男は全身のあまりの痛みに動けない。
呻きながら必死に起き上がろうとするが、足からは血が流れ、その痛みに初めて男の顔がゆがんだ。
ヒョウは近づくと、問いかけるように小さく鳴いた。
そのにおいで出血に気づくと、そっと傷口を舐め始める。

 鼻が動くにつれて揺れる長いひげ。血を舐めとるピンク色の舌が白い牙の隙間から出入りする。
こちらを向いて動かない、丸く広がり始めた瞳孔。
地平線に沈もうとする日の光は弱まり、それらは見る見るおぼろげになっていく。
ヒョウの黒い斑点が広がって全身を呑み込み、周りの闇に溶け込んでいくようだ。
その中で逆にただ二つの眼だけが輝き始め、いつかの夜、目を閉じている間に見たものを思い出させる。

 眠っていた人々を襲った大きなヒョウの姿。
今、闇の中で感じられるのは一匹の獣が血をなめる音とそのにおいだけだ。
今まで身を守ってくれたヒョウは、この血をなめて何かを取り戻し、獣として目覚めてしまうかもしれない。
それでも男は少しも動かず、ただ見ているだけだった。



 女は洞窟の暗闇の中でじっと身を壁に預けていた。
男もヒョウもなかなか戻らず、自分は毒の前に獣に襲われて死ぬかもしれない。だが今は毒のために全身から滝のように汗を流し、震え、意識も朦朧としていた。
やりを握ることも、火を起こすこともできず、気配を押し隠すことも忘れて別れた子や孫を弱々しく呼び続けていた。
それももうはっきりとした言葉にはならなかった。

 ぼやけていく視界に突然光がともる。男が帰ってきたのだ。
たいまつを手に洞窟の中へ入ると、その光を頼りに手の中のものを見せた。
手の中には握り締め、つぶれかけた毒消しの草があった。
女はそれを口に入れて噛み砕くと、震える手で傷口に擦り付けた。
男もそれを見て、まねをする。

 しかし女にはわかっていた。さそりに刺されてから、あまりにも時間がたちすぎてしまった。
毒はすでに頭にも回り、抵抗できる体力も若さも自分にはもうない。
それでもいつか男が同じようにさそりに刺されたときにどうしたらいいか、見せておきたかった。
これが自分が教えられる最後の知恵だ。
満足気に閉じかけた女の眼に映るものがあった。
            
 一人の少年が洞窟の入り口からこちらを見ている。
しゃがみこみ、体を半分隠すように。昔、ヒョウに殺されたあの友達がそこにいた。
同じ年頃で一緒に遊んだ少年。親を手伝ってさまざまな知恵を身につけ、いつか二人で父と母になるだろうと思っていた。
 松明のゆれる炎が少年の顔を照らし、笑っているようにも泣いているようにも見えた。
とうの昔に死んでしまったものが今、死に行く自分の前にいる。

 女は少年を見つめたまま、男の手に残りの草を握らせた。
そのまま大きく息を吐く。彼女の眼はもう二度と動かず、乾いた唇も誰かの名を呼んで動くことはなかった。
それでも毒で熱くなった女の体が冷たくなるまで、男は薬草を何度もかみくだき傷口にこすり付けていた。

 男は外を見た。洞窟の入り口近くでは少年が体を丸めて眠っていた。
その向こうで小さくなり始めた火に照らされたように、地平線近くの空が白くなり始めている。
小さな輝きが明るくなっていく空に溶けるように消えた。
だが、まだ全て消えうせたわけではない。
それをまぶたの向こうに感じながら、男の意識もまた薄れていった。

 
   
 

            << SKIP   < PRE  □ CHARACTERS     NEXT >    SKIP >>  
                                  

   Tamasaka Library  玉酒    書房
 Home    Gallery    Novels     Notes       Mail        Link

inserted by FC2 system