長が持っている石にそろそろ五本目の線を刻もうという頃。
一人前になったンナンは間もなく母親になろうとしていた。
夫には父と違い、優しい男を選んだ。
しかし、今のンナンには大きくなったお腹を撫でるたびに心配なことがあった。
寒さが厳しくなり始め、網の準備もできたというのに一向に「アミュタの魚」たちがやって来ないのだ。
今年は特に陸の獲物が少なく、海からの贈り物を当てにするようになっていた群れはすぐに飢えの不安にさらされた。
言葉をなくしたままで大概のものから隠れたがるアミュタの目を盗むようにして、腹を空かせたもの達は幼いハルパに請い願った。
このままでは冬を越せず飢え死にしてしまう。
だが余裕を失い、追い詰められた者達の視線はハルパだけでなく、アミュタにも耐え難いものだった。
誰かが近づくたび、ハルパを引っ張って姿を消してしまう日々が続いた。
その日も二人は群れから離れて、ンナンが分けた僅かな果物を分け合って食べていた。
それを時折眺める群れのもの達は深刻な表情で話し合っていた。
もう保存食も、辺りに食べられるものもないと知っているからだ。
「長、どうすればいい?」
長だけでなく、誰も答えられない。自分達の力ではどうしようもない。
「なぜ精霊は魚を送ってくれないんだ。このままじゃ飢え死にだ」
「誰か、川に悪さをして精霊を怒らせたのか」
「それならハルパが何か言うだろう。毎日蔓を垂らして精霊と話しているんだから」
「精霊に早く魚を送ってくれるよう頼もう」「どうやって」
「だってこのままじゃ二人の食べ物もなくなってしまうよ」
そしたら二人はどうするのだろう?海へ戻るのか。
ならいっそのこと……。
「二人に精霊に会いに行ってもらって、代わりにお願いしてもらったら」
「そうだ、それがいい……!」「葦舟に二人だけ乗せて」
「二人のほかに何も乗せなければ、今陸には何もないことが分かってもらえるだろう」
「精霊の妻と娘なら溺れて死ぬはずがない」
頬がこけ始めたもの達の話し合いは異様な熱を帯び始めた。
ンナンはそっと立ち上がり、気配を殺してハルパたちのほうへそっと移動した。
アミュタを、娘を、川に流す?一度はあきらめ、それでも戻って来てくれた大切なものを自分の手で遠くへやるなんて。
アミュタの母は身震いした。
それに今はもう、自分達にとって大切なものはあの子一人だけじゃない。
昨日ンナンが「足の間から少しだが粘り気のある血が流れた」と、青ざめた顔でやってきた。
もうすぐンナンにとって最も辛く、大切な戦いが始まる。
大事な時だ。ンナンをこれ以上不安にさせるわけにはいかない。夫の表情を伺うと、進んでゆく話を引きとめようと必死だ。
だが、半数以上のものが早速二人を葦舟に乗せようと立ち上がった。残りの者が反対して同じように立ち上がり、行く手をさえぎる。
一人が肩を抑えて止めようとすると、たちまちわっと揉み合いになった。
二人を守ろうとするもの達の隙間から見える顔、その目の鋭さにアミュタは後ずさる。
「アミュタ、ハルパと一緒に逃げて!」
アミュタは幼馴染が叫ぶより早く、驚いている少女を抱えて走り出した。
子供を抱えているというのに、川で消える以前には考えられかった程その動きは素早く身軽だった。
あっという間に木立の間に消えてしまう。
ンナンの後ろからは怒号が聞こえた。
長達を乗り越え、後を追おうとついに武器を持った。
長もその妻も、ンナンの夫も槍や銛を手にそれを阻む。
ンナンはいち早くそこを離れた。身重の上に食べ物も満足に食べていない体では足手まといにしかならない。
何よりアミュタと同じように、自分はこのお腹の子を守らなければ。
武器をぶつけ合う音、悲鳴、叫び声が遠ざかり、聞こえなくなると近くの岩陰に身を潜めた。荒くなった息を懸命に静める。
用心深いアミュタといれば、ハルパは心配ないだろう。
夫や長達は大丈夫だろうか。そう言えば詰め寄ってきたもの達の後ろのほうにあの男がいた。
アミュタと川で再会し、我を失っていた長の代わりに群れに指示を出していた男だ。いつも自分が長に代わろうとしていた。もしかしたら……。
ンナンの思考は、不意に目の前の茂みが揺れる音で止められた。
僅かな、しかし風のせいではない葉ずれの音。
「……!」
とっさに手で大きくなった腹をかばい、槍を構えた。
「あ、やっぱりンナン!」
枯れた草むらから現れたハルパの顔にンナンは全身の力が抜けそうになった。後ろには勿論アミュタの姿もある。
「探しに来たよ。大丈夫?」
ンナンが何とか笑って頷き返したが、ハルパの表情は晴れない。
「ねぇ、みんなどうしたの?どうして戦ってるの?……ハルパのせい?」
言葉と一緒に涙が滲んだ。その肩をそっと後ろからアミュタの手が包む。
これまで続いていた仲間達の追及と殺気立った大人達に不安で一杯なのだ。
「……違うよ、ハルパのせいじゃない。お腹が空いて、みんなイライラしてるんだよ」
今のンナンにはこんな言葉しか言ってやれない。
ハルパは拳で顔をぐいぐい擦ると、立ち上がった。
「行こう。ここから少し先に、いい隠れ場所があるから」