トゥモがティティに話して聞かせたことの中にはムサへの思いがこめられていて、生きてきたときよりもトゥモを身近に感じることさえある。
ムサが群れに加わったとき。一緒に行動するようになったころのこと。
初めて見た海で二人で過ごしたこと。
まるでティティはその目で見ていたかのように覚えていた。
やがて、また皆が食料の心配をし始めた頃。
先に様子を見に行った者の話では、ここからは海岸まで山が迫り、それがしばらく続いているとのことだった。
過ごしやすい浜辺がないなら、海から離れなければならない。
本格的に海の恵みを当てにできない暮らしはあまりに久しぶりだった。
幸いなことに川があるので、それをさかのぼることで群れの意見がまとまった。
だが、頼りになるはずだったムサはすでに足腰がひどく弱っていた。
痛めた足は弱まる一方、もはや肉を噛み砕くあごの力もない。
ムサはかつて自分がいた狩人の群れの掟に従うことにした。
『爪と牙が抜けた狩人は群れから去れ』という掟に。
自分という足かせがなければ、飢える前に群れは新しい土地を見つけられる。
しかし今の手足ではツェボ達に気づかれずに姿を消すことは難しい。
多くの人が集まっている夜の場で一人海岸に残ることを話し、ツェボとティティのことをみなに頼んだ。
二人の子供はショックを受けたが、今までも同じことがあったのをティティはやはり覚えていた。
集まりが終わり、みながそれぞれのねぐらへ戻ると、ティティはムサの顔を見た。
その暗い眼差しにムサは笑い返した。
「もうこの手足じゃみんなについていけない。狩りも昔のようにはできないからな。ここでお前達を見送るよ」
「でも、昔は草原で暮らしていたって……。帰りたくないの?」
「……いいんだよ。それにトゥモのむくろも浜辺に埋めただろう?オレも浜辺で死にたいんだ……」
ツェボは二人の会話を黙って聞きながら、胸元の貝を握り締めていた。
今ではティティも首から同じものを提げている。穴に通してある腱の紐が古びて切れる度、新しいものを通して大事にしてきた。
群れは移動するとき、必要な道具と食料以外はすべてその場に置いていかなければならない。
どんな大切な思い出の景色も記憶だけが頼りだ。
そして仲間と別れの時が来ても何も残せず、何も持ってはいけない。
だが、子供たちには小さな貝細工がこれからもムサの生きた証として記憶とともに残り続けるだろう。
それは同時にムサとトゥモが共に生きた証なのだ。それで十分だった。
数日後の朝、群れはついに川を上るために出発した。
仲間が別れを告げ、ムサと二人の子供は別れを惜しんだ。
何も言わないツェボの目に涙があふれるのを見て、ムサの目にも思わず涙が浮かんだ。
トゥモを失ってから泣いたことのなかったムサの潤んだ目に、やはりすすり泣くティティの顔が歪んで映る。
三人は抱き合い、髪や顔をなで互いのぬくもりを伝え合った。
何度も立ち止まり、振り返る兄妹の姿が群れと共に小さくなり見えなくなると、ムサは岩壁に体を預けて座り込んだ。
そばには群れのみんなが食料を残してくれた洞窟がある。
目の前には朝日の輝きを照り返す穏やかな海。
ムサはしわの増えたまぶたを閉じ、思い出を辿り始めた。
トゥモの腕に抱かれていた小さかったツェボ。波を怖がって泣き、浜辺につけた小さな足跡。
懸命に貝を掘るのに丸めていた背中。
それから、ツェボが一人でいなくなった夜、ティティが現れた。
そういえばあの時見た「青い背中」をあれからも時々見ることがあった。
といってもそれらしき影が陸の茂みにいるのを感じただけだ。
あの時と同じ鹿だったのかもわからない。
気づくとすぐに隠れてしまうのでついに他の誰にも教える機会がなかった。
思えばあれからあの鹿とは、ずっとつかず離れずの関係だった気がする。
またあの姿を見ることがあるだろうか?
でも会ってどうする?もう狩りをすることもできないのに。
「狩人の執念か……」
ムサは頬に残る涙の跡をぬぐうと、口元に小さな笑みを浮かべてみるのだった。
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